・・・戦前
カレーは庶民が家庭で手軽に作れる料理ではありませんでした。
カレー粉は販売されていましたが、小麦粉を炒め、ルウを作ることから始めなければなりませんでした。
また、肉と野菜のスープも必要で、主婦にとっては、たいへん手間のかかる料理でした。
・・・戦後
そこで、オリエンタルは主婦にとっての手間を省くため、カレー粉に牛脂やバターで炒めた小麦粉を加え、調味料も入った粉末状のカレールウを考案しました。
そして、1945年(昭和20年)11月、日本で初めてとなる、本格的なルウタイプのインスタントカレー「即席カレー」を世に送りだしたのです。
こうした、初めの一歩があり、今では、カレーは家庭で手軽に作れる料理となりました。
オリエンタル創業者
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発売当時の「即席カレー」
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昭和30年代 |
昭和20年。だれしもが特別な思いを抱くこの年、いまも残る最長寿インスタント・カレーは生まれました。
戦前から、カレーライスは"洋風"料理として家庭にも少しずつ浸透し、人気を博していましたが、その作り方は、炒めた小麦粉にいわゆる純カレー粉を混ぜるというもので、意外と手間のかかる作業でした。
地元愛知県内で小麦や砂糖などの食料販売を細々と手がけていた星野益一郎は、終戦になると新しい事業を模索していましたが、カレーが家庭科理として普及しつつあることに着目し、その料理方法をより簡単にする商品を作れば売れると考えました。そこで、炒めた小麦粉に純カレー粉をあらかじめ加えた粉末状のインスタント・カレーを作り、 『オリエンタル即席カレー』を完成させました。
当時あんパン1個が5円。この『即席カレー』は5皿分で35円。決して安くはない価格にもかかわらず、家庭の主婦はこれを喜んで台所に受け入れました。この『即席カレー』の意外なほどの人気ぶりに、星野はこれを愛知県内だけではなく全国的に販売していこうと決意し、宣伝カーを使って各地を回ることにしました。
4トントラックを改造し、全国各地を回った。芸人たちはすべて正社員だった。
宣伝カーから流れるアナウンスはこちら
当時の営業部員・加藤巌(現オリエンタル顧問)は言う。「音楽を奏でながら町を走り、人が集まってきたところでショーを見せ、最後に『即席カレー』を試食してもらうという内容。娯楽のない時代でしたから、ハチの巣をつついたように人が集まってきて、一回に1000個ぐらい売れました」
この当時としては斬新な宣伝活動を、仙台から沖縄まで全国行脚し、昭和28年から昭和45年頃まで続けられました。同時に、ラジオ、テレビを駆使したCM展開も実施し、オリエンタルの名が全国的に知られるようになったのです。
■「販促用グッズ」全国行脚の宣伝活動に使われた風船とスプーン。風船は子供たちに、スプーンは主婦に好まれた。 |
■「南利明さん起用のCM」
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■「がっちり買いまショウ」
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作っては売れるというカレーの黄金時代だった。
売上げは毎年倍増という勢いで、最盛期の40年代前半、年間売上げは25億円。多角的事業を展開する現在の売上げが約80億円ということを考えれば、いかにそれが驚異的であるかがわかるでしょう。ちなみに、その時の芸人の数は約40人(しかも全員が正社員)、宣伝カーは10台ほどあったそうです。
その後、同社は37年に『即席カレー』に次ぐ第2弾商品を発売。カレー本体とは別にチヤツネ(調味料)を添えた『マースカレー』で、後年、各社が導入するスパイス別添タイプのはしりとなりました。40年代後半以降、インスタント・カレーの主流が固形ルゥに変わっていくなかで、粉末カレーの同社は苦戦を強いられていったのですが、それでも同社は固形ではなく粉末にこだわり続けました。
というのも、固形ルウはその形を保つために比較的融点の高い油脂を使うのですが、その高融点の油脂(硬化油)が健康上問題になった時期がありました。当初から添加物をできる限り少なくし、自然な食品作りを目ざしていたオリエンタルは、これをきっかけに固形ルウを作らない方針にしたのです。
いまオリエンタルの主力となっているのはレトルト・カレーですが、そうした商品にも、より自然な食品作りという考えは受け継がれています。